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流水腐らず

第1号

(平成02年1月)

鎌田茂雄

東洋医学のことわざに「流水腐らず」という言葉がある。流れる水は腐ることなく、常に新しく、魚もまた住むことができる。これと同じように人間の精神と身体も、たえず不断に動かして鍛錬することによって若々しさを保つことができる。

どんな仕事も学問も武術も芸術も、少しずつ不断に継続することによって大きな力を発揮できるものである。宮本武蔵の「五輪書」には朝鍛夕練の稽古が説かれている。「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を練とす」(水の巻)と言っている。しかも稽古は「千里の道もひと足づつはこぶなり」と説かれている。一気に物事をすることは邪道である。一歩、一歩、稽古を積むことによって次第に道の深奥を体得することができるものである。

むかし、南都(奈良)に明詮(みょうせん)という人がいた。元興寺に入って法相宗の学問を学んだ。ところが愚鈍であったために、講義を聞いてもよくわからなかった。法相宗の学問はたいへんに難しいからであった。絶望した明詮は、学問することをあきらめて寺を出ようとした。たまたまそのとき、雨が降りだしてきて、楼門の下で雨を避けていたところ、楼門の土台の石に気がついた。その石の上には、雨垂れが滴滴と落ちており、石には、凹(くぼみ)ができていた。これを見た明詮は悟った。この柔らかな小さな水の雫(しづく)が石に穴をあけるではないかと。それは長い間かかってできたことを知った。これによって悟りを得た明詮は、再び寺に帰り、精進、努力して、ついに大僧都(そうず)という偉い坊さんになったのである。

仏教のお経には次のように説かれている。

汝ら比丘(ぴく)、もし勤めて精進せば、すなわち事難きことなし。この故に汝ら比丘、まさに勤めて精進すべし。たとえば小水、常に流るるときは、すなわちよく石を窄(うが)つが如し。

このお経の教えによると、精進ということがどんなにか大切であるかがわかる。小さな水滴であっても、いつも石の上に落ちていれば、いつかは石に穴をあけることができることを教えてくれている。

このお経の言葉は「流水腐らず」ということとまったく同じことである。お経では「不断の精進」といっているが、どちらも絶えず努力し稽古を続けることである。本道場においても清水管長がいつも「継続は力なり」とおっしゃって、われわれを激励して下さるが、まさしくそれは「流水腐らず」とまったく同じことである。一つのことを継続することこそが大きな力を生むのである。進歩は継続すること、精進することの中にあると思う。しかも気を入れて、気を発して稽古することが合気道の修行にとっても一番大切であると思う。