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「和」か「強さ」か

第82号

(平成22年10月)

天道館管長  清水 健二

或る新聞に戦国時代の武将・毛利元就の「家中(藩の家臣の称)無事は乱のはじまり」といった一節があった。

上に立つ者は和ばかり大事にしてうまくやろうとするな。和を重んずれば悪を懲らすことが出来なくなる。“トップリーダーの心構え”として「和ばかり重んじる人間を重く用いるな」。その理由として和を重んじる人間は職場で評判がいい。そうなるとこういう人間は善を勧め悪を懲らすことが出来なくなる。組織の無事を保つことばかりに腐心するからやがては綻びはじめる。綻びは大きくなり内部の争いが激しくなり、その組織は崩壊する。現代の組織にあてはめれば「トップは和ばかり大事にしてうまくやろうとするな」ということである。

会社などの上司の挨拶で「なによりも私は和を重んじます」という人は退任時に「お陰様で無事大過なく過ごすことが出来ました」と和を重んじた成果を別れ言葉にする。しかし今日のような危機だらけの時代に和を保って無事大過なく過ごしたということは何もしなかったと同義語である。“危機を解決しようとすれば必ず敵が出来る。危機解決はその選択だ”と作家の童門冬二氏は語っている。

特に現代社会において直に感じること。それは非に対してその非を咎め道理を通す備えがあまりにも弱いことである。危機に目をつむり我関せずが今日の風潮であるように思える。今の日本人には強さが見当たらなくなっている。私が子供の頃、悪い行為をすれば何の関わりもない大人に注意され怒られたものだ。今は誰も注意してくれる人がなく、若い子は善悪の区別もなく大人に育ってゆく様をみていると、何だかこれからの日本が怖い気さえするのである。

例えば、少年部に入ってきた我侭で身勝手な子に軽い罰を与えたりすると、とたんに抗議をしてくる保護者がいる。これにしても親が子を育てる気力が低下している証になるのではないか。このような親は一部であっても昔はそんなことはなかった。却って親は子供の方を叱ったものだが今は違いすぎる。これでは礼節を持った子に教育することすら今日の日本では危ぶまれる。

先ほど強さということを書いたが天道流合気道では形、技の反復を通して人間の強さ(心身の柔らかさに気力・忍耐力)を身につけることに目標をおいている。武道はスポーツとは同じものではなく武を通して人の道に至ることを目的とすべきものである。